デジタル時代の学校のありかた 1                                       〜 パラダイムシフト 〜

毎日子どもたちが通う学校の入り口には、大きな文字で「なければならぬ!なければならぬ!なければならぬ!」と書いてある。

 

学校では、しなければならないことがたくさんある。学校に行かなければならない。勉強しなければならない。集中しなければならない。じっとしていなければならない。宿題をしなければならない。言うことを聞かなければならない。

 

過去数10年の脳科学および心理学の研究などで、学習は無理強いできない、と分かってきているにもかかわらず、である。

 

習いたい、という意志がなければ、学ぶことはできないのである。

 

新しい認識は目を見張ることから生まれる。そして、目を見張ることも無理強いできないことの一つである。

 

何かを学ぶのに最も適している環境は、安心できる場である。安心も無理強いはできない。

 

それなのに、私たちの学校教育においては、あらゆる側面において「なければならぬ」ことだらけである。

 

一体なぜなのだろうか?

 

私の見解では、学校制度が生まれる基盤となった三つの柱が、こんにちにまで影響を及ぼしており、その三本柱が古いパラダイムに根付いていることが原因ではないかと捉えている。

 

1 おそれ

 

三本柱の一つ目は修道院である。

 

中世のキリスト教においては、人は罪を負って生まれてくるものである、と捉えられており、あるがままでは天国に行くことはできないと信じられていた。

 

天国へ行くためにはしなければならないことがたくさんあり、それを成し遂げて初めて、(場合によって)神の恵みで天国へ入れてもらえるかもしれないが、自分の本性は悪なのである。

 

そのため「自分は至らない存在である!」という深いおそれが西洋文明に植えつけられることになる。

 

それに伴う「プログラミング」により、人々は「一所懸命努力をしなければならない。そうすればいつか報われるかもしれない!」という信条に基づいて生きるようになった。

 

学校では、何かにつけ、このおそれに訴え、始終いい悪いの判断が下される。

 

クラスという「階級」ごとに分けられ、進学校は普通校より「レベルが高い」。成績にはいい点と悪い点があり、行動も評価される。しまいには、「いい」生徒と「悪い」生徒の区別さえつけられてしまう。

 

すべてうまくいけば、何者かになれ、ドクター、プロフェッサー、エンジニアなどというカタカナ名と「より高い」給料がもらえる。うまくいかない場合には、もっと小さい時からADHD、アスペルガー、ディスレクシアなどというカタカナ名がついてしまう。特別支援教育の対象と認められ、個別の指導計画を作ってもらい、ゆくゆくは「低い」給料を支給される。

 

けれども特筆すべきなのは、社会的な地位にかかわらず、多くの人々が「自分は至らない存在である」というおそれを抱き続けることである。

 

そして、もっと「上」へ達しよう、もっと「たくさん」得よう、と絶えざる努力を続け、それができたら、いつか満足できる時がくるはずだと自分を慰める。

 

いったい私たちは本当に、いつかその時がくるまで、満足することを先延ばしにしなければならないのだろうか?

 

2 服従

 

 

 

学校ができたときの2つ目の手本は軍隊である。

 

あまりいい気持ちはしないかもしれないが、学校のピラミッド式の権力構造は19世紀の軍隊にそのまま倣ったものである。生徒たちのグループを一人の教師が指導し、教師たちは校長の統率の下におかれる。そして、校長たちは文部省の指導要領に従う。

 

この権力構造が機能するためには、下の立場の者たちが服従する必要がある。

 

軍隊においては、絶対服従が課せられた。そうでなければ、兵士たちは人を殺したり、命の危険を冒したりしないであろう。

 

学校においては、どうであろうか?

 

生徒たちが教師の言うことに従うよう、説諭から退学に至る様々な処分が用意されている。規則に従わない生徒は処分を受け、それでも従わない場合には退学させられることになっている。

 

罰を与えることが学習にとって逆効果であることは、とうに知られているにもかかわらず、相変わらず罰が与え続けられている。前世紀のように叩いたりはしなくなり、あからさまでなくなっただけである。

 

日本では、法制度上では、1879年の教育令以来体罰が禁止されているが、戦中戦後、社会的には、体罰が犯罪である、という意識が薄れていった。ちなみにドイツでは、学校における体罰は1973年、家庭内では2000年に法的に禁止されるようになったばかりである。

 

そういうわけで、現職の教師たちの多くが、何らかの形で体罰を経験してきているのが現状である。

 

そして、何らかの処分が科せられない学校というのは、殆ど見かけられない。

 

ある意味で、成績の点数も賞罰としてつけられているようなものではないだろうか?

 

生徒が教師の言うことに従うことは、学校が成り立つ基盤と捉えられ、その代償として、生徒たちの心に深い無力感が植えつけられてしまう。

 

そのプログラミングを言葉にすれば「権威を持つ者(教師、医者、大臣)の言うことに従わなければならない。自分のことを自分で決めることはできない。」ということになる。

 

成長し、学習するためには、大人の言うことをきかなければならないのだろうか?

 

3 適応

 

 

 

学校教育に大きな影響を与えた3つ目の要因は産業化である。

 

工場が建てられ、人間にとって不自然な環境に適応できる労働者が多量に必要とされるようになった。そういう労働者は簡単に取り替え可能で、適応できる者は仕事について生活していくことができ、適応できない者は貧困が待ち受けていた。人々は孤独を感じ、自分がいてもいなくてもたいした違いはないのだ、というおそれが生まれた。

 

そのプログラミングの趣旨は「自分は他のみんなと同じで、みんなと同じように考え、感じ、ふるまい、生きるのが一番いいのだ。基準に従わなければならないのだ。」というものである。

 

私たちの学校制度は基準に従うことによって成り立っていると言っていいだろう。そして、その基準は経済界の要請に沿っている。

 

ある生徒(あるいは学校)が基準に合わないと、すぐに他と比較され、先行きの不安な問題児と見なされてしまう。

 

生徒は誰もがそれぞれの個性とテンポを持っていることは、教育学の本に書かれているのに、実際に「普通」に学習しない生徒、規範からはずれた行動をとる生徒に出会うと、往々にして手がかかるばかりだと受けとめてしまう。

 

多くの教師たちが、今や「普通」でない生徒が過半数である、と報告している。そうだとしたら、これまでのやり方に限界が来ていることを表しているのではないだろうか。本来は多数派が「普通」と見なされてきたはずである。

 

生きてゆくためには、「普通」にならなければならないのだろうか?