デジタル時代の学校のありかた   2

〜 パラダイムシフト 〜

 

新しいパラダイム

 

産業化時代は終わり、それに伴うパラダイムも過去のものとなっている。ちょっと前にはまだ確固としているように見えたことが、今では揺らぎつつある。

 

たとえば、経済成長が繁栄につながる、とは一概には言えなくなってきている。自然環境への影響、世界における貧富の差、金融界の危機、地球温暖化がそれを明らかに示している。 

 

あるいは、社会変革は政治、そして権力を持つ人々によって上から起こるものだ、という考えは、アラブの春によってくつがえされた。エジプトの独裁政権に終止符を打たせたのは、組織として形成されていない、若い世代である。

 

なぜ、そのようなことが可能だったのだろうか?

 

彼らは携帯電話やインターネットのような通信手段を使ってつながり合ったのである。

 

新しい時代がデジタル時代と呼ばれる所以である。コンピュータが家庭に普及するようになった1985年頃以降に生まれた若者たちは、この新しい時代のまっただ中にあり、ネットワーキング、マルチタスク、グローバル・コミュニケーションは、この新しい次元の表れである。

 

インターネットは、階層的でない、多くの個別単位から成る、カオス的な、つまり予測不可能な構造を持ち、それによって同時進行で遠距離にまたがって情報交換し、交信することができる。

 

今まだ現役の古い世代の人々の中には、いまだに過去のパラダイムに従って生きている部分があり、若い世代を理解するのに苦労している。

 

一方では、新しい可能性、その基盤と能力はすでに整えられ、ただ活用されるのを待つばかりの状態である。

 

古いパラダイムでは、人々は宗教、国家、経済に自分の権力を委ねていた。

 

新しいパラダイムの起点は、一人一人が各自の現実をつくり出す、ということにある。

 

 

古いパラダイムを乗り越える

 

新しいパラダイムでは、国が学校を改革してくれるのを待つ必要はない。たいていの場合、行政は後からついてくるものだ。

 

古いパラダイムに基づいた扱いをされるとアレルギー反応を起こす子供たちが増えつつある。おかげで、私たちは、このままではいけない、ということに気づくことができる。

 

私たち自身、分かっているつもりなのだが、いざ、教師として、あるいは親として、子どもやクラスが枠からはみ出た行動をとることによって行き詰まると、決して言うまい、するまい、と思っていたことを言ったり、したりしてしまう。子ども時代に自分が親や教師に言われてつらい思いをしたことを繰り返してしまうのだ。

 

「このままでは、ものにならないぞ!」

 

「こんな点じゃだめじゃない!」

 

「今厳しくしておかないと、だめになっちゃうから、お前のためを思ってしてるんだぞ!」

 

「あなたは、まだ何も分かってないのよ!」

 

「言うことをききなさい!つべこべ言わずに、とにかく言う通りにするんだ!」

 

「そんなんじゃ、将来いい仕事になんかつけないぞ!いったい何を考えてるんだ?」

 

「会社でも、なんでも自分の思うようにできるわけじゃないのよ!」

 

「ちゃんと卒業しなければ、先が見えてるぞ!」

 

「こつこつ積み重ねができないようじゃ、どこにもいけないわよ!」

 

「今はつらいだろうが、後で振り返って、ありがたみが分かると思うよ。」

 

「まわりの人たちを見てごらん、みんなもそうやってるのよ!」

 

「文句を言わずにやるんだ!」

 

「クラスの平均より随分低いわよ!」

 

「まずやることをやってからなら、好きなことをしてもいいわよ。」

 

「この前の試験を返す。間違いが12個もあったぞ!」

 

などなど。

 

 

学び続ける教師たち

 

上のような発言をしてしまうとき、それは私たち自身が行き詰まっていることを鮮明に物語っている。無力感、孤独感、悲しみに襲われたり、状況に対処しきれないと焦ってしまったときなどである。

 

そんなとき、使い古しのせりふで反応することで自分の感情を傍らに押しのけるのではなく、自分の心に感じていることに耳を傾けることができれば、自分の中に安心感を取り戻し、子供たちの力になってあげることができる。

 

そのためには、新しい教師像、そして従来の学校や教師養成において行われてきたのとは全く別のトレーニングが必要とされることになる。

 

子供たちが求めているのは、具体的に自分の感情と取り組んでゆこうとする教師たちである。職員会議でもそのような取り組みを実践し、自分、そしてまわりの人々とのコミュニケーションを学んできた教師たちである。

 

直感を磨く教師たち、日々の日課に瞑想を取り入れている教師たちである。

 

そのように学び続ける教師たちは、しばし思考を休ませ、ジャッジすることなしに100%心をかけて子どもの言うことに耳を傾けることができるようになる。

 

あるいは、「なければならぬ」と言うのをやめてみよう、と試みてみたりする。

 

 

新しいパラダイムにおける学校

 

新しいパラダイムにおいては、学校はほっとできる空間であり、子供たちはその中で安心して学習し成長してゆくことができる。

 

そのように安心できる空間においては、自分は至らない存在である、とか、無力である、とか、孤独である、という従来のおそれに取って代わって、次のような心の持ち方が培われる。

 

自分はあるがままで充分価値ある存在である。自分が何をしようがすまいが、そしてそれがどんな結果につながろうがつながるまいが、私の価値は変わらない。

 

自分の人生は自分で形作っていくものである。自分の現実は、自分が創造してゆける。

 

自分の行動は自分で決める。周りの人々とつながる中、自分の行動を選択してゆく。それが、自分の責任を取る、ということである。

 

従来望ましいとされてきた、努力、服従、適応に代わって、自分の価値を知り、自分の手で自分の人生を形作り、自分の行動を自分で決めてゆくことが重視される。

 

学校の入り口に大きな文字で掲げてあった「なければならぬ!」はぐらぐらと崩れ落ち、別の言葉が見えてくる:

 

「出会いの場」